【がん闘病】 ⑧ 出てってやる

妻ちゃんの病気の事

出てってやる

大きな問題が、これから治療をどうするかって事だった。

え?外科手術はやりつくしたんだから、抗がん剤治療が残ってるんでは?

 

「国立がん研究センター中央病院では通院以外の抗がん剤治療はしません」

 

はっきり・きっぱり言われた。

 

そして

「抗がん剤治療はおすすめしません。いいですか、抗がん剤は薬ではありません、言ってみりゃ毒です、劇薬です。メリットはありません」

しかも、ここにずっと入院しておくわけにもいかないでしょう、と。

完全に出口を塞いだ後、お医者は言った。

 

「で、DAFUさん、どうします?奥さん寝たきりですけど」

 

リスクヘッジをした上で、選択肢の無い僕にどうしようもない決断を迫る病院側には怒りを通り越してあきれるしかなかったけど、無知な僕はどうしようもなかった。

本人の痛みが癒え、これからほぼ寝たきりのまま治療を続けてやると思っていた矢先に文字どおり、<梯子を外された>形になった。

どうしようもないので、自分で相談窓口に行って2週間前から入院していてかくかくしかじか(表現が古いな…)、ソーシャルワーカーを紹介してくださいとお願いをしに行った。

  1. 治療はしてもらえない
  2. 通院したとしても、丸1日かけて抗がん剤治療をするなんて体力的に無理
  3. 家に帰れと言われている
  4. どうしたらいいか判らないと言ったら、緩和ケアに行けと言われたけど、なにをどうしていいか判らない。緩和ケアってなに?

 

という事を説明した。ソーシャルワーカーさんがとてもいい人で、僕の話を涙を流しながら聞いてくれ、一生懸命に転院先を探してくれた。妻ちゃんとも仲良くしてくれた。

今でもほんとに感謝してる。

僕は聖路加の面談に行ったり、どうすべきか周りや親族に色々話を聞いたり、治療や緩和ケアなどをネットで調べたりした。

それに並行して、介護保険や障害者の手続き等役所の手続きなどを行い、ヒアリングの立ち合いをした。

タクシーも使いまくってお金も使い、何事も無かったかのようにヘラヘラ笑って仕事をした。

あの頃はろくに寝てなかったと思う。忙しすぎたので落ち込む暇も無かった。

 

で、何とか御茶ノ水にある杏雲堂病院を紹介してもらう事になった。御茶ノ水まで行き、先方のドクターと話をして、転院させてもらう運びになった。

毒であることは間違いないし、副作用は個人でどう出るかわかりません。でも入院患者に対し途中で帰れというような事はしませんよ。という事を言ってもらい、ほっとした。

 

がんセンターの主治医の時間を何とか15分ほどもらい、転院を希望する旨を説明したところ、

 

「抗がん剤治療をしようと思っていました」

 

と耳を疑うような事を言い出した。流石にこれはガンジー並みに心根の優しい(笑)僕もキレそうになったが、一緒に聞いてたソーシャルワーカーさんのほうがあきれ顔だった( ゚Д゚)。

 

◎ 今までの経緯をまとめるとこうだ

  • 骨転移見落とし
  • 放射線治療の後2週間、治療の説明なし ソーシャルワーカーの紹介もせず
  • 抗がん剤治療は通院のみ、しかもずっと入院させられません
  • 何か手はないかと聞いたら、緩和ケア(終末治療)を紹介される
  • (転院しますと言ったら) 抗がん剤治療しますと言われる
* 事実だけを書いています。
ノートを取っていたので、
「何時何時に、通院でしか抗がん剤治療はしないって、言いましたよね?」
と言ったけど、お医者は、はぁ、そうですかと言うだけだった。
生きていくのに最後まで藻掻きたいんです。体はがんに侵されてるけど、普通にご飯食べて、手も動いて、話もして、子供の心配して、PTさんと地元の福岡の事を笑いながら話ししているんです。
その本人に、痛くもないのに緩和ケアに行けと言って「元気に」死ぬのを待てと言うんですか?
お医者は、まるで憐れむような眼で僕を見て、はぁそうですか、と言うだけだった。
何もできずに座して死を待つことができなかっただけで、落ち込んではいたけど、別に絶望はして無かった。だってそこに妻ちゃんが居て、話ができるんだもん。
緩和ケアに行って残された時間をカウントダウンなんてしたくない、寿命縮むかもしれないけどできる事は何でもやりたい、と思う僕の気持ちは、お医者にとって異常に見えるようだ。
無知な僕には未だに判らない。
こういう経緯で僕らはお茶の水の杏雲堂病院に移ることになった。
転院の日、看護師さんがみんなで見送ってくれた。中には泣いてる看護師さんも居た。
もう先が無いと思って泣いたのか、それとも不遇な妻ちゃんに対して泣いたのか分からないけど。
ともあれ、皆に好かれていたようで、僕も嬉しかった。
さらさらと雨が降る中、築地から御茶ノ水まで介護タクシーで移動した。
運転手さんに頼んで銀座を通って有楽町に抜け、外堀通りから竹橋経由で病院まで行った。
その間ずっと手をつないでいた。
有楽町あたりに差し掛かった時、
「自分じゃもう、ここ歩けないんだ」
と言って、妻ちゃんはぽろっと泣いた。
「車椅子でこよう。僕もTAROも居るよ」
満足に歩けなくなって2か月近く経っていた。
⑨につづく!!

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