習慣の違いか、都会だからなのか
関東の葬儀は驚くことばかりだった(笑
とまぁ、福岡、京都から来た親戚一同も一様にびっくりしていた。特に骨壺の大きさ(笑)。父は墓にはいるかな、と、どうでもいい、いや、どうでもよくない心配をしきりにしていた。
そして何より本人もびっくりしただろう、1週間も寒い冷蔵庫の中だったんだから。
一緒にたべよう
すっきりした表情で、綺麗にお化粧された妻ちゃんは、まるで寝ているようで、火葬されるのがかわいそうなくらいだった。
葬儀まで1週間あったのでゆっくりお別れをすることができた。その間、精進料理ばっかりだったのは物足りなかったが…(ギブアップして4日目くらいでカレーにするんだけど)。
この間TAROは殆ど泣くこともなかった。ましてや、今でもそうだが妻ちゃんが居なくて寂しいと自分から言った事がない。本人曰く、
「泣くと悲しくなるから」
だそうだ。
翌日に葬儀を控えた、通夜の日、1時くらいにふと起きるとTAROが居なかった。妻ちゃんの棺の前に居た。
声をかけると「何でもない」と部屋に戻っていった。本当に健気な6歳児は妻ちゃんが亡くなった時も、通夜も葬儀も、火葬場でも殆ど涙を見せる事は殆ど無く、
ましてや取り乱す事なんて皆無だった。
葬儀の写真も笑ってる写真ばかりだ。
「泣くと悲しくなるから」
の裏返しは
「悲しくなりたくないから泣かない」
だ
泣いていいのに。そんなに自分を抑え込まなくていいのに。
1回だけ、「いつも休みは病院に行って、友達と公園で遊べない!」と言って泣いた事があった。当たり前だけど、TAROも一生懸命我慢していた。
葬儀は結婚式とほぼ同じようなメンバーだった、親戚と仲の良い僕の友達でこじんまりと行った。
正直、他人や色々なめんどくさいしがらみに邪魔されずに、穏やかに最後を迎えたかったからだ。その点会社も協力してくれて感謝してる。
TAROはまだ暖かい骨壺を開けてみたいという。勉強の為だという。
この1年妻ちゃんを苦しめてきた第9胸骨なのか、燃え切らず黒くグズグズした骨があった。それが憎くてしょうが無かったが、しかし、それは妻ちゃんの一部でもあった。
上野に仏壇を買いに行き、一通り物を揃えた。ボチボチとみんな帰って行った。
葬儀の挨拶で、「つなぐ手は2つになったけど、いつも3人のつもりです」と言ったけど、TAROが「おとうさんにはぼくがいるからね」と小癪な事を言った。
この3年の闘病生活を、ずっと妻ちゃんと僕を支えていたのはTAROだった。
6歳児が家の手伝いをし、一人で遊んで、たまに留守番もして。お父さんに怒られて。
でも大人へ気を使い我儘を言う事は殆ど無かった。言い聞かせると「そっかー、じゃぁ仕方ない」とおもちゃの代わりに段ボールを切って何か作ってた。
何か作ってあげたり、絵をかいてあげたりすると、目をキラキラさせて「おお~すごい」と言う。
お父さんはすごい人でも偉い人でもありません。いつも怒ってばかりで、子供に気を使わせるダメ父です。
TAROいつもありがとう。
よくできた息子は、小学校の終業式の後、春休みで僕の実家に行ったが、新型コロナウイルス感染症の流行で2か月博多の実家に行っていた。
向こうではドジョウやメダカ、ダンゴムシを育てていた。東京の2DKで、日中会社に行きながらではできない体験をしてきたみたいで、よかったと思う。
東京に戻った後、暫くばーちゃんはTAROロスになったようだが(笑
47年の一生、僕とは12年の短い旅路。あと2年で僕が年上になってしまう。いつまでも老いることなく、何時までも写真の中の笑顔のままで見守ってくれるかな。
5月には13回目の妻ちゃんとの結婚記念日がきた。君の好きなイチゴのショートケーキとお花を買ってきたよ。
いつものように一緒に食べよう。来年もその先も。
おわり
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