富士そば
半身不随にも色々ある。妻ちゃんは第9頸椎、肩甲骨の少し下あたりをがんに侵されていて、胸から下が動かなかった。
つまり腹筋なんかにも力が入らないから車いすに座るにしても腰をガッチガチに固めないと乗れないし、乗れてもせいぜい30分だった。
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杏雲堂病院は食事に定評があった(笑)。とにかく食事に関しての口コミは好評で充実していた。
そして、子供を連れていくことも、病室で食事することも、色々甘かった(笑笑)。
食事は食べきれないほど出てたし、おやつも手作りのガッツリしたのが毎回でた。
20時までが面会時間という事もあり、会社が終わって病院の前の富士そばで食事を買い、一緒に晩御飯を食べた。
ざっくり計算するとあそこのそばとかつ丼と親子丼は5~60杯は食べてると思う。
二人部屋という事もあり、毎週末TAROも連れて行った。この頃、TAROに妻ちゃんのDSliteが受け継がれた(笑)。
因みにTAROは今や僕の3DSにバージョンアップしている。そろそろswitchが何とかかんとか言い出している…。
治療するぞ!
因みに、抗がん剤治療は妻ちゃんが「DAFUがやれっていうんならやる」って感じだった。
抗がん剤治療で一番苦しかったのは吐き気だったみたいで、吐き気のコントロールを色々やってくれて、何回かタームを回しているうちにだんだんと負担は軽くなっていった。
この頃は痛みも殆どなく、マッサージや腕の可動域を確保するストレッチや、車いすの練習をし、それはもう精力的に日々のタスクをこなして、夜は僕とご飯を食べるというのがルーティンになった。
当然、僕は御茶ノ水も神田も詳しくなった。
- 古本屋は知ってたけど、カレー屋が多い。
- 九州人おなじみの浜勝がある。
- 窓からはニコライ堂が見える。
- 新御茶ノ水駅のエレベーターはめちゃくちゃ長い。。
毎日毎日通った。普通の日は自転車で通い、雨の日は電車で通った。
電車好きなTAROは中央線のアナウンスを完璧にコピーするまでになった。
そこに行けば妻ちゃんがいて、一緒に飯が食える。夕方そらジローを見ながら一緒に大盛りの富士そばを食った。
休みの日はTAROは横でマリオをして、僕は妻ちゃんに拘縮ストレッチをして、アトピーの足に乾燥防止のクリームを塗る。
皆でたい焼きを食べ、音楽会の写真や動画を見た。TAROはしょっちゅう妻ちゃんに手紙を書いていた。「ご飯をいっぱい食べて元気になってね」字も絵も随分上手くなった。
TAROは小学生になった。
妻ちゃんは誰かの助けがないと何もできないという体になった。
元々僕ら夫婦は仲が良かったが、(そりゃ細かい事は色々あるけど苦笑)、妻ちゃんが本当に心も体も僕のものになった事を意味した。
僕には色々なものを文字通り一生背負って生きてく気概が生まれて、病気という事実は兎も角として、体力的にとか精神的にとか、全くつらい事なんてなかった。
おこがましいけど、これが愛なのかなと思った。
でも残念乍、彼女がどれだけ僕に委ねて、信用してくれて、愛してくれてたかは判らない。
妻ちゃんは最後の最後まで死ぬ気は無かったから、僕にもTAROにも手紙の一つ残してくれなかった。思い出と物だけが残った。
ねぇ、僕はちゃんとできたかなぁ、と今でも仏壇に話しかけるけど、そんな事より生きて欲しかったよ。
⑩に続く!!
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